Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

スーパー・ストラト・マーケット

休日。このところストラトキャスターがずっと欲しかったので、注文してしまった。Squier製だが。

ストラトタイプのギターは持っていたが、Fenderとは無関係のメーカーのもので、ピックアップがハムバッカー。80年代風のハードロックに向いている。そのうちの一本は、トレモロブリッジはヴィンテージスタイルだが、激しくアーミングしてもチューニングは狂いにくく、良い楽器。中古で安く手に入れることができたのだが、ボディの形状がやや不満だった。そこで、charvel製のような美しい形の楽器をしばらく探したが、安い価格帯ではなかなか見つからず、あきらめた。一口に「美しい形」といっても、人それぞれでイメージは違ってくるとは思う。ただ、ハードロックやメタル系のギターは尖ったデザインが多く、やや大人し目の端正なデザインは少ない気がする(あったとしても中々の高額)。大量生産品なので、少数派のニーズに応えるのは難しい、ということか。改造する人が絶えないわけだが、そもそもスーパーストラトのはじまり自体が、ニッチだった。

ストラトキャスターを注文したのは、シングルコイルのそこそこ良い音がするギターを求めてのことだが、それ以上に、現代では陳腐化してさえ見える、あのボディシェイプが、自分には魅力的だと思ったから。

社会はドレシング

やや疲れた一日。これといったこともなく、人に伝えたいこともなく。しかし、仕事の作業中には考え事というか発想の断片のようなものが幾つも思い浮かんだだろうし、お金のためとはいえ「こんなことやってられるか」と、悪態をついた瞬間が何度か訪れていたはずだ。それが帰宅して休息を取るうちに、現在の自分の客観的立場などどうでもよくなり、プライベートモードに突入。次の朝には、昨日みたいな惰性のサイクルのスタートラインが待ち構えている。

生まれたときに与えられたDNAと生活環境によって、生の大枠が定められるにも関わらず、「自分には何かできる」という幻想を育て、それらの多くが決して叶えられないという現実から生じる社会の狂騒。あるいは、「僕のやりたいこと」を貫き、夢を実現させ、「やればできるんだ」と無邪気に語る成功者。陰と陽の構成要素たちが、まるで水と油のように、同じ社会という器の中で、情緒的な攪拌と分離の運動が繰り返している。

そして、彼ら多数派の運動法則に従わない人間は、一度はリアリティのない世界から抜け出そうと試みるものの、それは不可能だと知り、同じ場所に留まり続ける。

それでも、日常の折々で「こうした方が良い」「かくありたい」という漠然とした気づきがある。それらの芽を潰さずに、なんとか育てていくことに、その人固有の生があるのではないか(そして、こうした個人を支援するのが社会の本来の役割だろう)。そのためには相応の意志や力が必要だと痛感しているところだが。

インフルエンス

平凡な一日。唐突だが、サザエさん的日常は、本当に日常なのか、と思う。すでに突っ込んでいる人が沢山いるはずだけど、あの家族が現代でも違和感なく受け入れられていたとしたら、凄い。なんといっても彼ら、3世帯同居で、家でも着物姿の人がいるかと思えば、まだ子供なのに叔父や叔母になった小学生とか、カオスを極めているからなぁ。まだ放送しているのだろうか、あの番組? スポンサーも、粉飾決算ブラック企業だったし…。

雑誌は廃刊になり、テレビ離れも進む昨今なれど、相変わらず流行は作られるものらしい。街ゆく人々の洋服やメイク、髪型などを見てもわかる。仕事や趣味で使う道具のデザインも同じく。企業の広告戦略には詳しくないが、プロモーションのやり方は変わってきているはずだ。昔と比べて明らかに異質なのは、ネットを介した口コミ戦略だろう。ある商品がヒットしたとき、記憶を振り返ってみると「このインフルエンサーの影響が大だな」と気づくことがある。個人的にも、その種の人から魅力のある商品を紹介してもらったことはある(日本では全然流行っていないが)。

個性あふれる人々が暮らす社会なのだから、趣味趣向も千差万別。手段は充実してきているので、様々な欲望が自由に表現され、多種多様な価値物が産み出され、皆が幸せを享受できるような豊かな世界がついに到来しつつある…という気配は、どうも今のところはない。あるのは、自然の摂理に逆らって髪を染めるのが普通の時代に、「金色はOKでも青色はNG」といった不合理だ。どうでもいい差異について他人の顔色を伺い、悪く言われないように気を配るお馴染みの構図は不動なわけだ。業界や企業が仕掛けなくとも、今までのような「流行」は当分なくならない、と予想。

現代人のストレス

休日の日。頭痛が痛い。アルコールを摂りすぎたからではない。慢性的なものだ。主に精神的ストレスから来るのだと推測している。精神的なストレスは、外からの刺激によるものと、内からによるものがある。外からの刺激は、外界と関わらないようにすることで避けることができる。しかし、内からのストレスは、それほど容易ではない。禁煙を思い浮かべてみればいい。ニコチンを摂取したいという欲求がありながら、それができないという状態に常時晒されるのだから。さて、ここから一般論を抽出してみよう。内からのストレスは、「〜したい」「〜であれ」という欲求や願望と、それらが満たされない現状とのギャップから引き起こされる、と。

世間と接していると、様々な欲望が掻き立てられる。ネット上のSNSでは、大勢の人が羨むライフスタイルが映像やテキストなどを通して流付され、その反動として、明るい場所では賞賛や祝福の、暗い場所では妬み嫉みの、数々の表現が実名匿名でなされている。少数の勝者と多数の敗者。強者はグラスを傾け美酒に酔い、弱者はうつむき唇を噛み締める。分不相応な欲望に引き摺られる形で、現代人の多くはストレスに苦しんでいるかのよう。自分のような厭世家は、嫌々世間と関係しているが、せめてもう少し精神衛生上過ごしやすい環境に整えてくれないか、と虚しく願っている。

ところで、川などで溺れた人は、助かろうとしてもがくよりも、自然に逆らわないようにしている方が、助かる確率が上がるという。あるいは、身体に怪我をして、「痛い痛い」と喚くのは無駄なだけではなく、さらなる苦痛をもたらす。「助かりたい」「よくなりたい」という強い「思い」が、不幸を呼ぶのだ。

スティーヴ・ヴァイというギタリストは、創造的なプレイの原動力は"passion"だと言う。日本語の「情熱」のように、「燃えるような熱い思い」という意味ではないらしい。曰く、「なんとなくこうありたい」というような、漠然とした精神の動きなのだ、と。

遊び

実り少なき一日。平日だというのに、中心街には人だかり。日差しも強く、予想外に不快なコンディション。休日と同じく、旅行者や近場の暇そうな人が多かった。こうした場所に来るのは、自分は目的があってのことなのだが、彼らは何のためなのだろう。銀行が集まったエリアの近傍には、飲食店に、カラオケや映画などのアミューズメント、雑貨に洋服店…その辺りか。日用品は、あんな所でなくても手に入れられるので、お友達と「遊んでる感」を感じられるような環境を求めてのことなのだろう。この国の人口ピラミッドと比べて、年齢層も低めだった。

歳を重ねるに従って、家族の面倒を見なくてはいけなくなる。友人とも疎遠になり、体力も減ってくる。そんな理由から、外で遊ぶ大人が減ってくる。間違っていないにしても、それだけのことだろうか?

より本質的には、精神面が成長することで、人生の楽しみ方や遊び方が、より深く、より洗練されるからなのではないか。子供の頃にダサいと感じていた大人のセンスが、自分が大人になってみると、実は格好良かった、あるいは美しかったということに気づくことがある。そして、若かった頃の感性に従って為した行動の記憶を、黒歴史(死語)の1ページとして封印してしまいたい思いに駆られることすらある(かもしれない)。中学・高校の生徒は、しばしば学校の制服を野暮ったく感じるのか、着崩したり、自分流にカスタマイズしたりするが、ほとんどの場合、見る者をだらしのない気分にさせる。

学校といえば、スクールカーストいうのがあるらしい。自分が学生だった頃もあったのだろうか。よく覚えていない。一番上位が、遊び人的な者たちなのだとか。貴族は遊ぶのが仕事だから、というわけか。しかしディテールの説明を聞くと、あまり上品な印象は受けない。「楽しく遊んでいる感」が、繁華街ではしゃいでいるグループのイメージとダブる。下位には、勉強ができるタイプや文化系タイプがいるとのこと。このカーストの序列も、大人になると逆転するという話だ。当然だと思う。深い喜びや楽しみを伴う経験を得るには、それなりの苦労が伴うはずだから。そして、社会的に価値あるものを生み出せるのは、お仕着せではない価値を身をもって感じたことがある人間たちだから。

 

リンク先

休日。微妙な一日。マハヴィシュヌオーケストラのアルバム「火の鳥」が安かったので、注文。高校の頃ベスト盤で一部の曲を聴いたきりだったので、今度はじっくり聴こうかと。良かったことはこれくらいかな。

用あってブラウザを使っていると、つい不要な情報にまでアクセスしてしまう。好奇心からだが、軽いネタ的なリンク先に飛ぶのは、いい加減やめたいところだ。けれども、まともなニュースサイトを読んでいるつもりが、気づいたら別のサイトからの怪しげな転載記事を読まされていた、なんてこともある。お金を貰う見返りに、別メディアへ誘導してやっているわけだ。最近増えているやり方だ。その運営会社は、読者の利便性よりも収益を重視する方針に変わったのかな、と思う。

それなりに信頼性の高いサイトから転載されている場合もある。だからといって、内容が良いかというと、これも微妙。例えば、確からしい事実やデータを列挙しているものの、出来事の本質がどこにあるのか示さずに、書き手の専門知識を披露するだけに終わっているもの。切り口を工夫することで読者の関心を引くが、何年も前から知られていることを繰り返し述べているだけのもの。「世の中には、こんな事情で苦しんでいる人がいるんです」と、情緒的に訴えかけるもの…。それぞれ、全くの無意味ではないけれど、向かうべき中心地点の周辺で、グルグルと停滞している印象。

本当に役立つ情報は、5行以内に簡潔にまとまっているか、官公庁の統計ページにあったりして。

流行作家

晴れの一日。仕事帰りにスーパーへ寄る。いつも買っている惣菜パンが売り切れ。残念。安売りしている缶詰を多めに買う。そのうち値上がりするから。帰宅してからは、ある作業に没頭。しかし、ビデオゲームがそうであるように、ご利益のあるものではない。

ところで最近読んでいるのが、クリスティの「メソポタミアの殺人」。今タイミングよく殺人が起こったところ。ポアロものだが、語り手がヘイスティングズではなく、若い女性に設定されている。やや頭がいいものの、世俗的な物の見方をする人物。大衆受けのためには当然か。簡潔だが、人間理解が浅いと書けない文章。作者自身は庶民的というより、上品な人だったのだろう。低俗な次元にまで落ちてはいない。

例えば、有名サイトのコメント欄には、批評家気取りの大衆が無責任な放言を垂れ流している。品の良い人は、彼らの下卑た視線や発想に眉を顰めるかもしれない。自分なら「〇〇がなんかいってる」と切り捨てるところ、流行作家は彼らの欲望に寄り添った姿勢で仕事をする。ビジネスだからとはいえ、少しは見習わねば(作家じゃないけど)。

クリスティにはそれほど詳しくなくて、「アクロイド殺し」のような本格ものがあるかと思えば、単なるサスペンスに終わる作品もあって、いまだに作風がつかめていない。意表を突く本格ものを一応期待しているが、どんな展開になるかハラハラする(メタ的に)。前回読んだポアロ登場作がなかなか良かったので、今回も期待。