Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

ホラーなネット空間

 ブログをしばらく書いていなかったが、できるだけ書いていたいものだと思う。普段長文を書くことがなく、他に文章力をつける機会がないのだ。人間は言葉によって思考する。そう言う人もいる。図画的・映像的イメージが先行する人もいるので、この意見には必ずしも賛成ではないが、「言葉による思考」というもの自体を否定するつもりはない。自分は、この「言葉による思考」が得意ではないので、弱みにならない程度まで上達させるのもいいか、と思う。言葉を使った思考と文章力は、密接な関係にあるはずであり、ともに鍛えたい。

 ところで、世の中には様々なブログがある(ほとんど忘れ去られた存在だろうが)。ブログ人口は国全体の人口と一致しないが、それでもかなり世相を反映しているだろう。その意味で、各種ブログを調べて回るのは世間を知ることであり、一般的に興味深いことである。もっとも、僕は自分が読みたいのしか読みたくないが。それでも、ときにはどうでもいいブログに辿り着く。調べ物で検索エンジンを使い、これはと思うリンクを辿ってみたものの、がっかりさせられた、というパターンである。

 例えば、個人の日記。ほとんど誰も読んでいないらしいが、私的な日常を匿名で書き散らしている。調子に乗って、教訓めいた結論で記事を締めていることもある(決して、このブログのことではない)。一文一文が短くて改行が多い。そして、短期間で更新されなくなる。「とりあえず、ブログというものを始めてみよう」という動機で書かれていたのだろう。ブログ黎明期に多かった印象。主に友人や知人に読んでもらっていたようだが、そんなまどろっこしいことをするくらいなら、直接連絡を取り合う方が良かった。最近は、チャットアプリが何種類でも利用できる。

 社会や政治について熱く論じる人たちもいた。素人だけではなく、インテリたちもブログ界隈に参入してきたので単なる床屋談義では終わらなかった。理論的な体裁を取るわけである。しかし、その内実はどうだったか? 

 移り変わりの激しい今の世の中で起きる出来事は、大半が取るに足らないことのようでいて、誰かにとっては確実に不満の種である。不満は吐き出される。潜在していたエネルギーが暴言悪態へストレートに転化されず、時事論評の形をとって表れたとしても、不思議はない。似たもの同士で徒党は組まれる。意見の違うグループの間では、罵倒合戦が繰り広げられていた。不良集団あるいは政治学生たちの抗争にでも例えられるべきか。ただし、違法行為があるわけでもなく、社会的に認められた範囲に収まっているので、それほど問題にならない(ただし、各集団の中で誤った情報や信念が共有されていくのではないかという懸念はある)。

 今やネット空間は、ゴミのような情報で満ちている。だが、例外的に、ある程度客観的で役に立つ情報が発信されている場合もある。事実、省庁や大学、研究機関から各種の統計や論文がインターネットの片隅で地味に公開されている。それは業務なのだからある意味当然である。

 しかし、面白いことに、個人から有用な情報が発信される場合もある。実践的な経験からのものが多い。流行り廃りのスピードが速すぎたり、社会からの認知度が低かったり、趣味的であったり、といった理由から公式的なフォーマットには馴染まないだろう。しかしながら、それらを欲する人は一定数いる。

 市井の人間であっても、強靭な思考は可能である。実際、これだけ膨大な情報が飛び交っているのだから、無名の方の鋭い洞察に触れたことはあるのではないか。そして、一定水準以上の思想を説こうとするならば、SNSや動画サイトが幅を利かす時代ではあるが、ブログ的な場所が必要となる気がする。

 ところで、こうして一般に情報公開がなされることの裏には、何かしら秘められた動機があるようだ。ささやかながら人様の役に立ちたいという殊勝なものから、褒められたい、お金が欲しい、といった、よこしまなものまで。しかし、それはそれで良い。実社会ではありふれた光景である。

 しかしながら、先日遭遇したあるサイト。それなりに真面目な感じで、ある有名な専門家に私淑していた人が普及活動をしているらしい。その中で、日常の雑感を記事にしたものがあって、つい読んでしまったのだが、途中で「おや?」と思う。「〜な人は、あるあるエピソードだと思って読んでください」という変哲の無い表現なのだが、その部分で「〜な人」でない人の立場に立ってみると、そういった人たちを馬鹿にしているともとれるニュアンスが感じられるのだ。妄想だという可能性もあるが、ボロを出さずにギリギリの線を狙っているようでもある。自分は気持ちが悪くなって、最後まで記事を読み進めることはできなかった。 

 さらに穿った見方をするなら、自分に対する個人攻撃である可能性も考えられる。けっして根拠のないことではない。直接面識はないのだが、向こうは写真で自分の顔を知っている上に、自分がサイトを閲覧することも計算できる状況にいたはずなのだ。

 そう思いながら見渡してみると、真実のネット空間は、ステルスされた悪意に満ち満ちているのかもしれない。あからさまな誹謗中傷など、可愛いものだと思う。

 

結婚騒動

世間は、皇族の結婚相手で揉めているようだ。母親が借金をしていたことが発端だが、結婚相手本人には何の落ち度もないらしい。「さっさと結婚させてやればいいのに」と思っている人も大勢いるだろう。反対しているのは、一体誰なのか。「お相手としてふさわしくない」という文句が頻繁に使われているが、それなら、どういう相手が「ふさわしい」のか。

一般人も、結婚にはこだわる。個人的には、しなければしないでいいのではないか、と思うが、「いつかは自分も」という人が多い。恋愛関係になる相手ですら、「将来を考えられる人」が選ばれがちだが、要するに結婚相手だ。恋人ができると友人や親から、「あの男(女)は、ふさわしくない」などと干渉されているのだろうか。

たまに、WEBをながめていると、「いい男(女)の条件は何か」といった内容が見受けられる。いい加減なライターが無責任に書いている感じがするが、真に受ける人もいそう。もしかしたら、今度の皇族の結婚を問題にしている人々も、無責任に適当なことが言ってみたいだけなのかもしれない。真摯な対応を求められる側にとってはいい迷惑だが。

自分にとって結婚問題は、頭で捏ねくり回した幻想だ。みんな目の前にいる人間を直視せず、勝手な妄想を相手に押し付けようとしているように映る。

 

僕の「やりたいこと」で社会貢献!

休日。外出するが、さすがに人が少ない。しかし、このくらいが丁度いい人口密度だと思った。買い物をして帰宅。やりたいことが沢山あるはずが、一晩寝ると何をしたいか忘れたり、やる気が減退していたりする。「それは、本当にやりたいことがないからだろう」と、やる気のある人は思うかもしれない。でも、「本当にやりたい事」とは何だろうか?

如何にも「やりたいこと、やっています」というふうにみえる人間は、外面がよく打算的だ。これに、一定以の能力が加わると、社会的に成功する。能力が発揮される方向性が大衆の要求と一致するからだ。当然ながら、少なくないお金もゲットできる。そして、実績とお金を背景に、さらに「やりたいこと」をスケールアップさせようとするだろう。

しかし、彼らの「やりたいこと」の中身は、一体どういったものなのだろう? 「社会に貢献します」だの、もっともらしい建前を用意して、何かしら活動のサイクルを回転させるものの、そこから吐き出された生産物の価値は、どれほどのものなのか。人気のYouTuberの動画を再生したことがあるが、僕は最後まで観られなかった。良いコンテンツを制作するというのは、簡単なことではないな、と思う。ブログの文章だって、単に書き手が消費したコンテンツを紹介をしているだけ、という記事が多い。アクセス数は稼げるかもしれないが、読んで楽しくはない。ある大学のある学部は基礎研究の学部なのだが、基礎研究の研究者は次々と減ってゆき、入れ替わるように、応用研究の研究者が続々とポストを得て「役に立つ」研究をやり始めた。明らかに畑違いの人たちを採用しているのだが、批判も起きずにやりたい放題の状態だった。その後の彼らが残した業績は、どれほどのものになったのだろう?

弓の達人は、的に矢を当てようとして、矢を放つわけではない。「己を滅すること」を目指すので、「的に当てたい」という欲求そのものが皆無だ。一級の仕事を為す人は、「やりたいこと」などという薄っぺらいものには振り回されない。むしろ、逃れられない必然性を自身の内に抱え、その必然への向き合い方が、結果的に外へ表現された、ということなのだそうだ。

要するに、世のほとんどの人間は、自分のやるべきことから目を逸らしたり、怠けて享楽に走ってしまっている、ということか。自戒。

オクターブチューニングのトラブル

休日。Duo-Sonicのチューニングをチューナーを使ってやってみると、どうしても開放弦と5フレットを押弦して出す音の音程が合わない。オクターブチューニングが合っていないためだ。ギターを始めたての頃は気にしていなかったが、段々と気になってきた。方を付けるには、オクターブ調整する必要があるのだが、自分のDuo-Sonicは、サドルの位置を限界まで動かしても、うまくいかなかった。しばらくの間そんな状態で、どうしたものかずっと悩んでいたのだった。それが今日、一つの解決方法を発見した。それは、「弦高を変える」というシンプルなもの。

サドルを限界までネック側(あるいはその逆側)まで移動させたものの、もう少し高い音程(低い音程)に調整しなければならないとする。ナットは固定されているので、弦長は変えられない。他にできることといえば、弦のテンションを変化させることくらいだろう。音程を高くしたければ、テンションを強めるために弦高を上げてしまえば良い。音程を低くしたければ、逆に弦高を下げれば良い。実行してみたところ、思惑通りになった。弾き心地も悪くない。一本の弦高をいじることで、他の弦とのバランスを取る必要も出てくるが、自分の場合は6弦だけ調整すれば事足りたので、運が良かったと思う。

Fender系のギターの多くは、それぞれの弦の高さはバラバラに変えられるが、Gibson系のものでは、そうはいかない。全部の弦の高さが、同時にしか変えられない。それに、サドルの可動域がFender系と比べて狭いように感じる(実測していないけど)。実は、自分のEpiphone SGが、オクターブ調整が不完全にしかできなかった。それだけが理由ではないのだが、結局手放してしまった(哀愁)。

再起動

休日。朝、目が醒めるとmacのファンがすごい勢いで回転していた。実は、その前に二度寝しようとしていたときにもファンが回っていたのだが、アパートの上の階の住人が水道を使っている音だろう、と勘違いしていた。筐体に触れても、熱くはない。電源を落として再起動させたが、動作に問題はなし。長い間電源を落としていなかったことや、マルチメディア関係のプログラムを複数起動させていたことが関係していたのではないか、と思っている。

ところで、日々の生活もマルチタスクで成り立っている。やりたいことが沢山ある。あるいは、やりたいことがあまりないとしても、衣食住にまつわる必要性から、やらなくてはいけないことが次々と出てくる。頭の中でシミュレーションするだけでは完結しない(基本的には)。好き嫌いは感じつつも、とにかく何かの作業に着手することにはなる。そうして、しばらくすると、体力が尽きたり必要な物資が足りなかったりと、諸々の要因でその作業はストップしなければならなくなる。そして、この瞬間が問題だ。スイッチを切り替え、別の作業へスムーズに移行できるか否か、ということである。

スイッチが自然に切り替わるのなら問題ない。しかし、世の中を見渡せば、「頭の切り替えが上手くいかない」という嘆きの声がよく聞かれる。この手の悩みは、多くの人たちが抱くものらしい。人間は、コンピュータのようにタイムシェアリングで活動ができないのだ。肉体が、一日ごとに睡眠をしなければならないようにできているのは、強制的に再起動を繰り返すようなものなのだろう。

美男美女への無理解

スペクタルな一日。ロケットで宇宙へ行ってきた。打ち上げ直後のGも、無重力状態も事前の訓練通り。やはり、地球は青かった。ほとんど何の感慨もないまま地上へ帰還する。夢を見たのではない。即席の作り話だ。

昼前に、寝ぼけた頭で外にへ出て、駅前のデパートへ向かう。スマホにイヤホンをつないで音楽を聴きながら。デパートでアクセサリーを購入。プレゼント用に包装してもらう。カバンを持ってこなかったので、直接ポケットに突っ込む。待ち合わせ場所に着くと、相手はすでにいた。「いいお天気ですね。お茶でもいかがですか、お嬢さん?」と声をかける。「わたくし、雨女ですから」とのお返事。その場を離れ、そこそこ洒落たレストランに入る。席に着くと、先に買ったアクセサリーのプレゼントを渡した。
「何これ?」
「プレゼントだよ。今日は誕生日だろ?」
手にした包みを観察し、彼女は眉を寄せる。包装紙が少し破れていた。
「何これ?」
「あ、ごめん。不注意で」
「そもそも、ここもパッとしないお店よね…」
「……」

疲れて家に帰ると、アガサ・クリスティメソポタミアの殺人を最後まで読む。例によって、犯人は犯人として一番自然な人物。最初はこの人物と別のもう一人との共犯だと思っていたけれど、なるほど、単独での犯行の方が自然だと感じた。殺害方法も決して無理ではないし、読者の想像の範囲内に収まるだろう。伏線も張ってあった。この伏線(ある部屋で大きな音がしたときに、別のある部屋でそれが聞こえる)の解釈が分かれるところで、自分は真相から遠ざかる方へ解釈してしまった。衝撃度は低いものの、一応、面白い作品だった。

難をいえば、クリスティ作品は、読み進めていくうちに、犯人なんて誰でもいい、という気分になってくるところかもしれない。そのかわりに、小説としての内容が常に面白いわけでもない。例えば、美男美女の描き方には違和感があり、リアリティが落ちているように感じる。大衆が持つステレオタイプに沿うようなキャラ造形、はっきり書くと、モテない男女の被害妄想が入り混じった人間理解が反映されているように感じる(そして、これは世の中のエンタメ作品全般にも当てはまる)

美人が社会的に価値を持つのは、否定のしようがない事実だ。そのことを当人たちがどう評価しているかは、個人差が大きいと思う。一般的に、社会を生きる人間は誰しも、それまでの人生経験に基づいて「自分なら、不特定の他者からは大体この程度を扱いを受け、この程度の魅力を持つ人間と付き合えるだろう」という予測をしているものだろう。美人は、この予測と期待の基準値が平均よりも高い。しかし、そこに、悪気はない。

オリジネーター

休日。ほとんど何も起こらず。起こさず。寝床から起きるのも遅かった。朝と昼の間の曖昧さでアラン・ホールズワースを聴く。この人は、ジャズとロックの境界の位置で音楽をやっていた人だ。こう書くと、俗にいうフュージョンかと思われるかもしれないが、少しばかり異質。80年代以降のソロ作に、彼の特徴がよく出ているように感じる。上手く表現できないが、小綺麗な曲でも、スーパーのBGMには絶対にならないユニークな演奏する人。

自分は、同じジャンルの音楽でも、ミュージシャンが違うと、それぞれが別の音楽に聴こえた。時代時代で流行のスタイルがシーンを支配してきたことを感じつつも、楽器の音色やボーカルの声質が違うだけで、同じスタイルの中で好き嫌いが別れた。ジャンルそれ自体への好悪は、それほどない。コード進行のパターンがほぼ決まっているブルースは、昔から現代まで延々と演奏されてきていて、これからもすっかり飽きられてしまう気配はない。

新しいスタイルには注目が集まるが、時間が経つと陳腐化する。スタイルの発明者は、それを発案したという形式的な理由で凄いとされる。けれど、彼らがやったことをじっくりと見てみると(聴いてみると)、時代を超えた凄みを感覚的に感じ取れる。

少し話はズレるが、自分は、下手糞と貶されるジミー・ペイジの演奏が好きだ。