Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

僕の「やりたいこと」で社会貢献!

休日。外出するが、さすがに人が少ない。しかし、このくらいが丁度いい人口密度だと思った。買い物をして帰宅。やりたいことが沢山あるはずが、一晩寝ると何をしたいか忘れたり、やる気が減退していたりする。「それは、本当にやりたいことがないからだろう」と、ある種の人は思うかもしれない。でも、「本当にやりたい事」とは何だろうか?

如何にも「やりたいこと、やっています」というふうにみえる人間のほとんどは、目立ちたがり屋で通俗的、そして打算的だ。これに、一定以上の能力が加わると、社会的に成功する。能力が発揮される方向性が大衆の欲望や関心事と一致するからだ。当然ながら、少なくないお金もゲットできる。そして、実績とお金を背景に、さらに「やりたいこと」をスケールアップさせようとするだろう。

しかし、彼らの「やりたいこと」の中身は、一体どういったものなのだろう? それぞれの分野で、もっともらしい御託を嘯き、何かしらの活動のサイクルを回すものの、そこから排出された生産物の価値は、どれほどのものなのか。人気のあるYouTubeチャンネルの動画を再生したことがあるが、僕は最後まで観られなかった。良いコンテンツを制作するというのは、簡単なことではないと思う。ブログの文章だって、単に書き手が消費したコンテンツを紹介をしているだけ、という記事が多い。ある大学のある学部は基礎研究の学部なのだが、なぜか基礎研究の研究者が次々と減り、新しく工学系の研究者が続々と入ってきて「役に立つ」研究をやり始めた。その後の彼らが残した業績は、どれほどのものになったのだろう?

弓の達人は、的に矢を当てようとして、矢を放つわけではない。己を滅することを目指すので、「的に当てたい」という欲求そのものが皆無だ。一級の仕事を為す人は、「やりたいこと」などという薄っぺらいものには振り回されない。むしろ、逃れられない必然性を自身の内に抱え、その必然への向き合い方が、目に見える形に表現された、という感じだ。

要するに、世のほとんどの人間は、自分のやるべきことから目を逸らしたり、怠けて享楽に走ってしまっている、ということか。自戒。

オクターブチューニングのトラブル

休日。Duo-Sonicのチューニングをチューナーを使ってやってみると、どうしても開放弦と5フレットを押弦して出す音の音程が合わない。オクターブチューニングが合っていないためだ。ギターを始めたての頃は気にしていなかったが、段々と気になってきた。方を付けるには、オクターブ調整する必要があるのだが、自分のDuo-Sonicは、サドルの位置を限界まで動かしても、うまくいかなかった。しばらくの間そんな状態で、どうしたものかずっと悩んでいたのだった。それが今日、一つの解決方法を発見した。それは、「弦高を変える」というシンプルなもの。

サドルを限界までネック側(あるいはその逆側)まで移動させたものの、もう少し高い音程(低い音程)に調整しなければならないとする。ナットは固定されているので、弦長は変えられない。他にできることといえば、弦のテンションを変化させることくらいだろう。音程を高くしたければ、テンションを強めるために弦高を上げてしまえば良い。音程を低くしたければ、逆に弦高を下げれば良い。実行してみたところ、思惑通りになった。弾き心地も悪くない。一本の弦高をいじることで、他の弦とのバランスを取る必要も出てくるが、自分の場合は6弦だけ調整すれば事足りたので、運が良かったと思う。

Fender系のギターの多くは、それぞれの弦の高さはバラバラに変えられるが、Gibson系のものでは、そうはいかない。全部の弦の高さが、同時にしか変えられない。それに、サドルの可動域がFender系と比べて狭いように感じる(実測していないけど)。実は、自分のEpiphone SGが、オクターブ調整が不完全にしかできなかった。それだけが理由ではないのだが、結局手放してしまった(哀愁)。

再起動

休日。朝、目が醒めるとmacのファンがすごい勢いで回転していた。実は、その前に二度寝しようとしていたときにもファンが回っていたのだが、アパートの上の階の住人が水道を使っている音だろう、と勘違いしていた。筐体に触れても、熱くはない。電源を落として再起動させたが、動作に問題はなし。長い間電源を落としていなかったことや、マルチメディア関係のプログラムを複数起動させていたことが関係していたのではないか、と思っている。

ところで、日々の生活もマルチタスクで成り立っている。やりたいことが沢山ある。あるいは、やりたいことがあまりないとしても、衣食住にまつわる必要性から、やらなくてはいけないことが次々と出てくる。頭の中でシミュレーションするだけでは完結しない(基本的には)。好き嫌いは感じつつも、とにかく何かの作業に着手することにはなる。そうして、しばらくすると、体力が尽きたり必要な物資が足りなかったりと、諸々の要因でその作業はストップしなければならなくなる。そして、この瞬間が問題だ。スイッチを切り替え、別の作業へスムーズに移行できるか否か、ということである。

スイッチが自然に切り替わるのなら問題ない。しかし、世の中を見渡せば、「頭の切り替えが上手くいかない」という嘆きの声がよく聞かれる。この手の悩みは、多くの人たちが抱くものらしい。人間は、コンピュータのようにタイムシェアリングで活動ができないのだ。肉体が、一日ごとに睡眠をしなければならないようにできているのは、強制的に再起動を繰り返すようなものなのだろう。

美男美女への無理解

スペクタルな一日。ロケットで宇宙へ行ってきた。打ち上げ直後のGも、無重力状態も事前の訓練通り。やはり、地球は青かった。ほとんど何の感慨もないまま地上へ帰還する。夢を見たのではない。即席の作り話だ。

昼前に、寝ぼけた頭で外にへ出て、駅前のデパートへ向かう。スマホにイヤホンをつないで音楽を聴きながら。デパートでアクセサリーを購入。プレゼント用に包装してもらう。カバンを持ってこなかったので、直接ポケットに突っ込む。待ち合わせ場所に着くと、相手はすでにいた。「いいお天気ですね。お茶でもいかがですか、お嬢さん?」と声をかける。「わたくし、雨女ですから」とのお返事。その場を離れ、そこそこ洒落たレストランに入る。席に着くと、先に買ったアクセサリーのプレゼントを渡した。
「何これ?」
「プレゼントだよ。今日は誕生日だろ?」
手にした包みを観察し、彼女は眉を寄せる。包装紙が少し破れていた。
「何これ?」
「あ、ごめん。不注意で」
「そもそも、ここもパッとしないお店よね…」
「……」

疲れて家に帰ると、アガサ・クリスティメソポタミアの殺人を最後まで読む。例によって、犯人は犯人として一番自然な人物。最初はこの人物と別のもう一人との共犯だと思っていたけれど、なるほど、単独での犯行の方が自然だと感じた。殺害方法も決して無理ではないし、読者の想像の範囲内に収まるだろう。伏線も張ってあった。この伏線(ある部屋で大きな音がしたときに、別のある部屋でそれが聞こえる)の解釈が分かれるところで、自分は真相から遠ざかる方へ解釈してしまった。衝撃度は低いものの、一応、面白い作品だった。

難をいえば、クリスティ作品は、読み進めていくうちに、犯人なんて誰でもいい、という気分になってくるところかもしれない。そのかわりに、小説としての内容が常に面白いわけでもない。例えば、美男美女の描き方には違和感があり、リアリティが落ちているように感じる。大衆が持つステレオタイプに沿うようなキャラ造形、はっきり書くと、モテない男女の被害妄想が入り混じった人間理解が反映されているように感じる(そして、これは世の中のエンタメ作品全般にも当てはまる)

美人が社会的に価値を持つのは、否定のしようがない事実だ。そのことを当人たちがどう評価しているかは、個人差が大きいと思う。一般的に、社会を生きる人間は誰しも、それまでの人生経験に基づいて「自分なら、不特定の他者からは大体この程度を扱いを受け、この程度の魅力を持つ人間と付き合えるだろう」という予測をしているものだろう。美人は、この予測と期待の基準値が平均よりも高い。しかし、そこに、悪気はない。

オリジネーター

休日。ほとんど何も起こらず。起こさず。寝床から起きるのも遅かった。朝と昼の間の曖昧さでアラン・ホールズワースを聴く。この人は、ジャズとロックの境界の位置で音楽をやっていた人だ。こう書くと、俗にいうフュージョンかと思われるかもしれないが、少しばかり異質。80年代以降のソロ作に、彼の特徴がよく出ているように感じる。上手く表現できないが、小綺麗な曲でも、スーパーのBGMには絶対にならないユニークな演奏する人。

自分は、同じジャンルの音楽でも、ミュージシャンが違うと、それぞれが別の音楽に聴こえた。時代時代で流行のスタイルがシーンを支配してきたことを感じつつも、楽器の音色やボーカルの声質が違うだけで、同じスタイルの中で好き嫌いが別れた。ジャンルそれ自体への好悪は、それほどない。コード進行のパターンがほぼ決まっているブルースは、昔から現代まで延々と演奏されてきていて、これからもすっかり飽きられてしまう気配はない。

新しいスタイルには注目が集まるが、時間が経つと陳腐化する。スタイルの発明者は、それを発案したという形式的な理由で凄いとされる。けれど、彼らがやったことをじっくりと見てみると(聴いてみると)、時代を超えた凄みを感覚的に感じ取れる。

少し話はズレるが、自分は、下手糞と貶されるジミー・ペイジの演奏が好きだ。

 

スーパー・ストラト・マーケット

休日。このところストラトキャスターがずっと欲しかったので、注文してしまった。Squier製だが。

ストラトタイプのギターは持っていたが、Fenderとは無関係のメーカーのもので、ピックアップがハムバッカー。80年代風のハードロックに向いている。そのうちの一本は、トレモロブリッジはヴィンテージスタイルだが、激しくアーミングしてもチューニングは狂いにくく、良い楽器。中古で安く手に入れることができたのだが、ボディの形状がやや不満だった。そこで、charvel製のような美しい形の楽器をしばらく探したが、安い価格帯ではなかなか見つからず、あきらめた。一口に「美しい形」といっても、人それぞれでイメージは違ってくるとは思う。ただ、ハードロックやメタル系のギターは尖ったデザインが多く、やや大人し目の端正なデザインは少ない気がする(あったとしても中々の高額)。大量生産品なので、少数派のニーズに応えるのは難しい、ということか。改造する人が絶えないわけだが、そもそもスーパーストラトのはじまり自体が、ニッチだった。

ストラトキャスターを注文したのは、シングルコイルのそこそこ良い音がするギターを求めてのことだが、それ以上に、現代では陳腐化してさえ見える、あのボディシェイプが、自分には魅力的だと思ったから。

社会はドレシング

やや疲れた一日。これといったこともなく、人に伝えたいこともなく。しかし、仕事の作業中には考え事というか発想の断片のようなものが幾つも思い浮かんだだろうし、お金のためとはいえ「こんなことやってられるか」と、悪態をついた瞬間が何度か訪れていたはずだ。それが帰宅して休息を取るうちに、現在の自分の客観的立場などどうでもよくなり、プライベートモードに突入。次の朝には、昨日みたいな惰性のサイクルのスタートラインが待ち構えている。

生まれたときに与えられたDNAと生活環境によって、生の大枠が定められるにも関わらず、「自分には何かできる」という幻想を育て、それらの多くが決して叶えられないという現実から生じる社会の狂騒。あるいは、「僕のやりたいこと」を貫き、夢を実現させ、「やればできるんだ」と無邪気に語る成功者。陰と陽の構成要素たちが、まるで水と油のように、同じ社会という器の中で、情緒的な攪拌と分離の運動が繰り返している。

そして、彼ら多数派の運動法則に従わない人間は、一度はリアリティのない世界から抜け出そうと試みるものの、それは不可能だと知り、同じ場所に留まり続ける。

それでも、日常の折々で「こうした方が良い」「かくありたい」という漠然とした気づきがある。それらの芽を潰さずに、なんとか育てていくことに、その人固有の生があるのではないか(そして、こうした個人を支援するのが社会の本来の役割だろう)。そのためには相応の意志や力が必要だと痛感しているところだが。