Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

遊び

実り少なき一日。平日だというのに、中心街には人だかり。日差しも強く、予想外に不快なコンディション。休日と同じく、旅行者や近場の暇そうな人が多かった。こうした場所に来るのは、自分は目的があってのことなのだが、彼らは何のためなのだろう。銀行が集まったエリアの近傍には、飲食店に、カラオケや映画などのアミューズメント、雑貨に洋服店…その辺りか。日用品は、あんな所でなくても手に入れられるので、お友達と「遊んでる感」を感じられるような環境を求めてのことなのだろう。この国の人口ピラミッドと比べて、年齢層も低めだった。

歳を重ねるに従って、家族の面倒を見なくてはいけなくなる。友人とも疎遠になり、体力も減ってくる。そんな理由から、外で遊ぶ大人が減ってくる。間違っていないにしても、それだけのことだろうか?

より本質的には、精神面が成長することで、人生の楽しみ方や遊び方が、より深く、より洗練されるからなのではないか。子供の頃にダサいと感じていた大人のセンスが、自分が大人になってみると、実は格好良かった、あるいは美しかったということに気づくことがある。そして、若かった頃の感性に従って為した行動の記憶を、黒歴史(死語)の1ページとして封印してしまいたい思いに駆られることすらある(かもしれない)。中学・高校の生徒は、しばしば学校の制服を野暮ったく感じるのか、着崩したり、自分流にカスタマイズしたりするが、ほとんどの場合、見る者をだらしのない気分にさせる。

学校といえば、スクールカーストいうのがあるらしい。自分が学生だった頃もあったのだろうか。よく覚えていない。一番上位が、遊び人的な者たちなのだとか。貴族は遊ぶのが仕事だから、というわけか。しかしディテールの説明を聞くと、あまり上品な印象は受けない。「楽しく遊んでいる感」が、繁華街ではしゃいでいるグループのイメージとダブる。下位には、勉強ができるタイプや文化系タイプがいるとのこと。このカーストの序列も、大人になると逆転するという話だ。当然だと思う。深い喜びや楽しみを伴う経験を得るには、それなりの苦労が伴うはずだから。そして、社会的に価値あるものを生み出せるのは、お仕着せではない価値を身をもって感じたことがある人間たちだから。