Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

製品の値段

休日。注文していたイヤホンが届く。なんと値段が1万円以上。今まで4000円のものを使っていたが、これは低音域が強めに鳴り、高音域は曖昧だった。新しい方は高音がクリアで空間的な広がりを感じられる上、低音もしっかり再生される。装着感も悪くない。高いのも頷けるが、毎日使うので簡単に元が取れそう。良い買い物をした。

一般論として値段が高い商品はクオリティも高い。逆に、安い商品にはどこか問題がある気がする(食べ物は別かも)。まず、使い心地が悪いことが多いし、長持ちしづらい。自分で手を加えられる場合は改善する可能性はある。洋裁ができる人は、服のボタンが外れようが生地に穴が空こうが、簡単にリカバーできるし、工作ができる人は簡単な電化製品の修理くらい自分でできるだろう。しかし、それはある程度の知識と技術が前提なのはもちろん、値段が低い分の労力を自分で負担しなくてはいけない、ということでもある。そもそも、スマホをみんな持っている時代に、個人で不具合を解消できる製品は少なそうだ。

安物は消耗品。そこで、値段がそこそこ以上のもの買い求めることになる。けれど、このクラスであっても、他社のコピー品は好きになれない。真似しているというだけでマイナスな印象だが、模倣する理由が売らんがためという一点で、それ以外に必然性がなさそうな物品は最悪だと思う。消費者を満足させられる機能性と審美性を無理に組み合わせた感じが、美しくないのだ。一方、オリジナルを作ったメーカーの廉価版にはコストカットの意図が認められるものの、ビジネスの都合から来る不自然さはない。

後進のメーカーの一部には、中価格かつ高品質で良いもの作る会社があると思う。こちらは、先行するメーカーのやり方を研究しているのか、比較的それまで汲み取られていなかったニーズに応える努力をしているように見える。古いメーカーがブランド価値で商売しているのに対して、努力せざるを得ないのだろう。けれど自分は、「オリジナルと派生」という目で比べてしまい、結局「オリジナル」が欲しくなってしまう。それほどお金がないから、オリジナル体験が不足しているのだ。 

 

一億人組

 世間は休日。駅近くのとある場所で、テレビみたいな液晶モニターが設置されていた。画面を見ると、付近の監視カメラが通行人たちの様子を写した映像のようだった。不特定多数の人間が密集し感染症のリスクが高い場所なので、対抗策を講じたつもりなのだろう。マスクをしていない人間に対して「見ているぞ」と脅しているわけで、感じが悪い。以前はやっていなかったのだが、行政から圧力がかかったのかもしれない。

 民衆をコントロールするための方法として、この手のパターンが有効な社会だということ。江戸時代の五人組(だったか)も同じ原理だろう。近くの者たちでグループを組ませる。お上が命令した際、命令どおりの行動をとっているかグループ内で相互監視させる。もし違反者が出たら、お上に報告が入り、ペナルティが科される。現代はSNSが発達しているので、悪さをするとネット上の晒し者となる。5人のグループから総勢1億人以上の大グループへ。究極の相互監視社会と言っても過言ではないと思う。長いものには巻かれる傾向のある社会とはいえ、さすがに気持ち悪くないだろうか?

 僕自身は、マスクする必要があるのなら無料配布した上で、きちんと法律や条例で規制するべきだと思う。正当な理由をはっきり説明し、説得し、「ルール」を設定する。緊急事態なので議論を煮詰めろとはいわない。完全に民主的なプロセスは踏めないと思う。それでも、「他人が見ているよ」「みんなやってますよ」みたいな前近代的すぎるセンスにはうんざりしている。

ミステリの女王

 休日。昼食にはスーパーで買った、のり弁。値段の割に量が少なすぎ。中身が見えない容器に入っていた。特に味が良いというわけでもなく、添加物不使用のようなセールスポイントがあったわけでもなく…。去年、Epiphone SGを特価で手に入れたが、使い込んでいくうちに段々と安っぽさが気になっていった。音の密度が低い、という評判をあらかじめ耳にしていたが、そんな感じは実際にする。ネックの握りや押弦のしにくさも、コストカットの影響が大だなと思う。コイルタップはほとんど使わず、個人的にはこちらを無くして欲しかった。トーンとヴォリュームのつまみも、それぞれ一つずつで充分だと思う。それでも、カジュアルに弾ける一本が欲しい、という欲求は満たしてくれたので一応納得はしている。チューニングも狂わないし。

 さて、今日読み終わったのがクリスティの"Peril At End House"。中古品だけど、前の持ち主の書き込みはなくてネタバレされずに済んだ。邦題は、自分の本だと「エンドハウスの怪事件」。出版社によっては「邪悪の家」らしい。この前に読んだクリスティ作品は期待したほどの出来ではなかったのでどうなることかと思ったが、なかなか良かった。かなり序盤の方で犯人の見当はついてしまったけれど、終盤に「あれ、もしかして別の犯人かも?」という展開があったり、見落としていた伏線が回収されたりと、なかなか楽しめる作品だった。クイーンほどガチガチの理屈はなく、カーのようなトリック勝負でもない、自然体の本格ミステリ。各キャラクターの言動に無理が少ない。リーダビリティも他の二人と比べて圧倒的に高い。それでいて、多くの読者が疑わなかった人物が犯人という意外性。ミステリの女王と呼ばれる訳だ。「レッドへリング」という言葉が指す意味が、自分にもようやくわかった。食わず嫌いしていたけれど、これからもっと読みたいと思う。

将来何になりたい?

 素晴らしい休日。何が素晴らしいって、休日なところが素晴らしい。注文していたギターが届いた。かなり安物で、チューニングが不安定。トレモロブリッジもコストカットしているはず。ちょっとショックな構造だった。とりあえず演奏できなくはないけれど、部品は交換したい。もともと改造する覚悟だったし。ボディシェイプが気に入っている。これが目当てで買ったのだ。写真は掲載しない。珍しいギターなので個人特定されそうだから(そんな馬鹿な)。写真に撮ってアップロードするのが面倒だ、というのが本命の理由。

 実は演奏が上手になりたいとは思わない。やる気がないのかというと、そうではない。改造やリペアの道へ進むのだ。…と、いうのも嘘。コピーをしたいミュージシャンが何人かいて、彼らのようにプレイしたいだけ。初心者なのでオリジナリティなんて考えていない。模倣するのみだ。趣味なのだから。

 もし自分が10代の子供で才能があったら、プロを目指すかもしれない。あらゆるジャンルの音楽を聴きまくり、そのそれぞれからエッセンスや奏法を吸収した上、業界のコンテストなどにも参加して「上手いギタリスト」という評価を勝ち取れるよう努力するかも。見かけはアーティストであっても、市場での立ち位置だとか、社会の中での役割というものを意識している人が結構いる。所詮は人の子。「社会的アイデンティティ」に執着するタイプの人はいるのだ。

 何かしらの「スペシャリスト」や「達人」でありたい。「何者か」でありたい。そんな動機が、行動を促す起点の一つになっていた可能性はある。情けないことに、「他人から見た自分のあり方」を昔は気にしていた。 

 逆に、「自分だけのオリジナル」へ拘ったとしても、その背景には「その他大勢」の人々の存在を前提にしている。社会的アイデンティティに対して、裏返しの形で執着していることになる。

 「将来何になりたい?」という大人の問いかけが、強く子供の一生を束縛するようだ。

 

プロとアマチュア

つつがなく去りし一日。今日は注文した新しいギターのお金を支払った。もちろんオンラインで。当たり前のことではあるが、当たり前のことが当たり前に出来て嬉しい。ギターの本数が増えすぎたので、どれかを手放そうと思っている。一応やりたい音楽のイメージは明確にあって、それに合わせて買っている。無節操に増やしていったわけではない。今度送ってくるのは、Kramerの1ハムのストラトタイプ(ステレオタイプと読み違えないように(3月の肌寒さ))。IbanezのRGシリーズをちょっと前に手に入れたところだが、弾きやすいものの、メーカー独自のフロイドローズが自分にはあわない感じ。懐かしの80年代ハードロックを演奏するのにぴったりではあるけれど。

その当時の時代までは、ギターヒーローと呼ばれるミュージシャンが続々と登場していたみたいだ(批判も多いが、自分は、この手の人たちはそれぞれ個性があって好き)。「ロックスター」という言葉もリアリティがあったのだろう。モテるためにバンドを始めたという話があるくらいだ。20年以上経った現代では、大勢のアマチュアが彼らの曲を次々とのカバーし、動画サイトなどにアップしている。同じサイトで、昔は見たくても見られなかったバンドのライブの様子も再生できる。テクニック的にはかつてのスターたちと素人たちとで明確な実力差がないのではないか、と感じてしまう。

文章の世界でも、ある意味似たようなことが起こっている気がする。ニュースサイトの記事を読むと年々誤字や脱字の数が増えてくるし、「本当にプロが書いた文章か?」と疑いたくなるような酷い作文に遭遇することがある。ボキャブラリーが貧困過ぎたり、論理的に筋が通らな過ぎたりするのも当たり前になりつつあると思う。こちらは音楽界とは違い、玄人の素人化という下方修正的変化だ。

このふたつの世界を比べてみると、ポピュラー音楽界はポジティブな方向に向かっているのかもしれない。

希望は実現する

世間は休日。駅には人が多かった。マスクという予防線を張りつつ弛緩した空気感。パンデミックが地球上を襲い、世紀末よりも世紀末らしい様相を呈する中での退廃的ロックンロールライフ。みなさんお元気そうで何より。なんてね。それにしても、世界中の国々から新型ウイルスという共通因子が括り出せそうな今日この頃だけど、各国とも鎖国状態なのだろうね。アジア系を含めて街中には外国人がほとんどいない。まだいるのは、人件費の安い国から連れてこられた労働者くらいだろう。この人たちはどこかにはいるはずなのに、市街では目立たない(東京はどうなのか知らない)。外国人嫌いの日本人はこの状況に内心満足しているんだろうな。そういえば、テレワークもいまひとつ浸透していないみたいだし。これは技術の問題というより、仕事の成果が客観的に評価されることに大勢が抵抗するからだろう。大衆は、表向きマスクをして緊急事態宣言を延長すべしと正論を唱えつつ、目立たないところで自分たちが望む方向へ社会を動かしているわけだ。

Fenderの売り上げが過去最高らしい。巣篭もり消費とやらの恩恵を受けているのだとか。まあ、自分もこの一年でDuo-Sonicを買ったしね。これ以上欲しい楽器は殆どないので、演奏を上達させることに集中したいものだ。と、言いたいところだけど、今度はギター本体以外の機材が気になってきた。これまで音を出すのに安い練習用アンプを使ってきたものの、近所に遠慮して音量を落とす必要があったわけ(ヘッドホン越しに聴く音は気に入らなかった)。周りをやや気にして集中できない状況が不満だったの。でも最近、MacのGrageBandが使えそうなことに気がついた。Macユーザのくせに今更ね。それで、こいつのアンプシミュレータを試すためにいろいろと情報を収集中。ギターを繋ぐインターフェイスも買い揃えないとね。レコーディングなどの編集作業もできるらしいので、一端のミュージシャンみたいな創作活動ができるかも。いや、ひょっとするとネットを介してMac一台で海外の人ともセッションできたりするのか。なんか、楽しみだ。

惰性とプレッシャー

惰性的な休日。暇さえあれば音楽をよく聴くのだが、ふつう寝起きにいきなりハードな音楽は聴かない。ところが、高校の頃の自分はふつうではなかった。朝起きると、CDプレーヤー(時代だ)にハードロックアルバムをセットして、再生ボタンをON。目覚まし用に、そうしていたわけではない。当時聴いていた音楽が、ほぼこの手のジャンルだけだったこともある。けれど、自分のことながら、どういう感覚をしていたのだろうと思う。だいたい夜が明ける前の早朝のことだったから、音量は絞っていた。良いヘッドホンを買うお金もなかった。三、四時間を勉強や読書をして過ごし、誰よりも早く登校。全校生徒で一番だったかもしれない。これも、交通ダイヤの制限があったわけではない。人のいない校舎を見るのは好きだった。

子供の奇行だが、今振り返っても理由は理解できる。大人から管理される生活の中で、独りだけの時間が欲しかったのだ。学校で、家庭で、常に周りには他人がいた。教師の多くは頭が悪くて尊敬に値しないだけでなく、生徒指導の裏には学校組織や受験産業の利害がちらついて、気持ちのいいものではなかった。生徒は生徒で、彼らの発想やセンスには、大人が作ったステレオタイプに収斂していく予定調和を感じて面白くなかった。家には、古い価値観を持った頼りない親。それぞれの場所で逃げることもできず(どこに逃げる?)、不快な人間たちから不快な圧力を受け続けてきたように思う。

文章に書いてみれば悪いことばかりの状況みたいだが、ここには一つ学ぶべきポイントがある。自身にとってマイナスなのに避けられない人々の存在が、何か新しいことを生み出すための動因になるかもしれない、ということだ。「ここではない何処かへ行きたい」という欲求が一度沸き起こったら、ブレイクスルーのための新しい考え方や行動を取らざるを得ないではないか。

大人になると不快な状況からは逃げやすくなる。ともすると温室でぬくぬくと惰性的に生きることになる。