Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

気持ちのいい挨拶

すっかり暖かくなった。冬用の上着が暑い。そろそろ花も咲き、虫が湧く嫌な季節が来る。でも、実は自然の変化は連続的なので、「季節がやってくる」なんて表現は誤りだ。俳句には季語を入れなければいけないらしいが、一年を高々四つくらいに分割するとは文学のくせに乱暴な。

一日という単位をとってみても、時間帯ごとに挨拶言葉が変化する。朝は「お早う(ございます)」、昼間は「今日は」、夕方は「今晩は」。これらの三つ。なぜか朝だけに丁寧語バージョンがある。「早」という漢字が当てるが、何が早いのだろう。11時でも「早い」という主語は? それから「今日は」あるいは「今晩は」なにか特別なことがあるのだろうか。述語は?

挨拶には曖昧さがつきもののようだ。英語の"What's up?"は、体調を訊いているだけでなく「何をしているの?」という意味にもなる。純粋に今現在の行為を質問するのなら、もっと直接的な表現になるだろうが、それでは挨拶っぽくない。英語の挨拶言葉は個人が起点になっている気がする一方、日本語の挨拶言葉は日の傾きが基準になっている気がする。東洋らしく、人間ではなく自然が意識の中心にあるようだ。どうして日の傾きなのか? どんな性格の人間でも一応は関心を持つ対象だからだろう。共通の話題、というわけだ。

世間のニュースも、挨拶がわりに話題に上る。「社会人」がニュースも読まず(見ず)に社会情勢に疎ければ馬鹿にされるが、これは挨拶が腰砕けになって面白くない、という感情が主原因だ。本当にきちんと状況を理解している人は少数派だろう。

僕自身は、挨拶なんて大っ嫌いだ。

 

シンプルなストラト

休日。工具を買いにホームセンターへ。マイナスドライバーと何故かジャケットを購入。ドライバーはギターの調整用。それ以外の用途に使うことはないだろう。なんと贅沢な買い物。ジャケットは濃い色のデニム地。同じデニムでも、色落ちしたジーンズには合わないはず。現在、新しいものを注文して、配送されるのを待っているところ。しかし送り先を、自分のアパートメントに指定している。WEBで買ったので、PUDOや営業所留めはできないらしい。不便だ。

ところで、エレキギターの種類には、ストラトキャスタータイプというのがある。普通の人がエレキギターと聞いて連想するふたつのうち、アコースティックに似ていない方だ。こちらは、つまみをいじるだけで多彩な音を出すことができる。プロのスタジオミュージシャンが現場で使うのに重宝するらしい(自分は素人なので詳しくない)。その代わりに、チューニングや弦交換などのメンテナンスがやや面倒だ。実は僕も持っているのだが、結局、出したい音色は特定の一種類だけだったりする。

案外、自由そうなものに自由度が少ない。

専門店

休日。気温が夜でもかなり暖かくなってきた。昨日、ある要件で幾つかの楽器店にメールを送信したのだが、もう返信が届いた。仕事というわけでもなくて、客として簡単な質問をしただけ。向こうにとっては、一円の得にもならない。前にも似たことを(別の店に対して)して、無視されたことがあるので、好印象。無視された店に行ったことがあるが、店員の態度が悪かった。最初は普通だったが、自信がなさげで、間違いを指摘すると怒り出す始末。言葉遣いも汚くなった。

世間には詳しくないが、結局仕事というのは、多くの場合、凡人がマニュアルに沿って作業するものだったのだろう。素人には手に負えないので、お金を払ってプロに仕事を依頼する、という素朴なイメージが、消費活動あるいは自分自身の労働を重ねていく中で、どんどん壊れていく。実は、みんな詳しいことは知らずにブラックボックスばかりの道具を使って、辻褄合わせをしているだけ。いよいよどうにもならくなったときに初めて、本当のプロの出番が回ってくる。

自分が大切にしていた物に問題が生じたとする。それを持って、専門店に相談に行ったとして、お店の人から的確な処置を受けることができるだろうか? 他の店へたらい回しにされることなく、納得できる結果がもたらされたとしたら、そこは本物の専門店だと思う。気持ちよくお金を払うことができる。こういうのが、あるべき姿なのだろうけど…。

地図

やや寒い一日。早朝が4℃で、昼間も風が冷たかった。荷物を取りに某運送会社の営業所へ。場所がわからず人に訊いたが、結局地図をプリントアウトしたものを渡されただけだった。スマホは家に置いてきてしまった。本来ならアプリ上で現在地を確認しながら自力でたどり着けただろう。同じような経験をしている人は、結構いるかもしれない。いや、地図を手にしたはいいが使いこなせずに困惑することもあるのだろう。先日、観光客風の人からブラウザの地図を印刷した紙を見せられ、「どう行けば?」と尋ねられた。確かに、抽象的に表現された街と実際の街とではまったく様子が違う。知らない土地だと、どれも同じような建物にしか見えない。目印になる建物すら、普段利用していないとそれとは気づかないかもしれない。けれど、スマホを持っているのなら(持っているはず)、試しに辺りを動き回ってみれば良いのではないか。GPS機能のおかげでリアルタイムで現在位置がわかるのだから。少なくとも、そのうち地図に名前が載っている所へ行き当ると思う。けれど、なぜか人に尋ねたがる人は多い。説明がわからず余計混乱したり、嘘をつかれたりするかもしれないのに。不確実なものに頼ろうとする不思議。

人間的ということは、動物的

今日も暖かい一日。猿分野、ではなく、さる分野の勉強をするはずが、趣味関係の情報をネットで検索、枝葉末節へ入り込む。ほとんど進まず。ほとんど暇つぶしになってしまった。特に意味のあることはできなかった。(と思いきや、実は前から必要性を感じていた物品を注文していた。)

何かの作業に没頭した後、別のことに移ると、もう前のことなんて忘れてしまう。喉元過ぎれば熱さを忘れる、ではないが、似た感じがある。忘れるということは、大した行為ではなかったのだろう、とも考えられるが、必ずしもそうではない。おそらく、没入しすぎるところに問題がある。ヒトが取る多くの行為は、「〜のため」という目的の連鎖だ。この連鎖の、おおもとの目的に対して、執着が強すぎると、その過程が意識されにくくなり、理性や冷静さを失いがちになるのではないか。言い換えると、自分の内側に支配される、ということになる。外部である他人や社会からの支配ではなく、自分自身の原始的な本能に縛られた状態。動物に近づく、ということだ。実際彼らは、すぐに物事を忘れる生き物ではないか。

ただ、ぼーっとしていたかった

休日。比較的暖かい一日だった。冬も終わりそうな気配。日も長くなってきた。一般的には、日照時間が長いほうが喜ばれるようだが、僕は夜が長い方が好きだ。暗いと外の人通りが少ない。都会だとちょうど良い具合になる。感染症が流行しているから、というわけではなく。まあ、治安のいい日本だから、こんなことがいえるのだろうな。そろそろ、花粉症の季節か。

ニュースを見ると、タガが外れたような人間や組織の問題行動がよく目につく。子供の頃はそれほどではなく、最近になって増えたような気がするが、それは多分大人になったからだろう。子供は明るい夢の世界を生きている。世界は未知で溢れていて、冒険的。現実社会での出来事は、観察の対象というより、自身の物語を構成する材料として取り込まれているのではないだろうか。大人になると、それが自分への制約条件として現れやすくなる。

大人だって夢を見なくはない。でも、それは妙に現実的で俗っぽい内容に変わっている気がする。やれ、年収いくらの男と結婚するだの、マイホームを建てるだの…。あと、出世とか? 会社に家庭、あるいは世間の一員としてのアイデンティティが自分の中で大きな場所を占めるのだろう。

僕自身は、物心ついたときから大して変わっていないように思う。あまり世の人々が関心を寄せるものには興味がなければ、オタク的な趣味もない。ただ、ぼーっと怠けていたい自分を、どこか楽しい道へ向かって歩かせる努力をするようになったくらい。

パディントン発4時50分

暖かすぎた一日。クリスティパディントン発4時50分を読了。う〜む、なんというべきか…。読みやすく自然体の作品だが、軽量級。よくいえば、暇つぶしにはなったか、という感じ。序盤の殺人事件が目撃されるところはすごく良かったし、途中もストレスなく読み進めることができたのだが、結末に不満あり。「え、それだけ?」というくらい捻りがなかった気がする。本格ミステリのつもりでいたのに、虚をつくような発想(トリック)や、「なるほど」と思わせるような論理性に欠けていたように思う。(犯人は犯行を実行できた人物として一番自然な者だったし、動機も想像できるものだったが。)だからか、巻末の解説では、こういう感想を持たれることを見越して、クリスティはトリックもの書ける、と遠回しに弁護しているようにみえた。なにしろ、あの「アクロイド殺し」を書いた作者だしね。今回の作品は、それと同等の傑作とは絶対違うし、次はもっといいのに当たるといいな。そういえば、この作品、やたら不幸な夫婦が出てくるよ。夫を亡くした妻とか、妻を亡くした夫とか。それに、二人とも生きているけれど、それほど仲が良くないカップル。ちゃんと、意味のある設定なのですな。