Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

「ミステリー」と書くのは、にわか

平々凡々な一日。大したことは起こらず。四文字熟語は、こんなふうに、書くことがないときに重宝しますな。そういえば、ここ数日アガサ・クリスティパディントン発4時50分を読んでいるのだった。そろそろ終盤だけれど、犯人なんて誰でもいいや、と思っているところ。でも、さすが聖書の次に売れている本の作者。読ませる文を書く。それに、自然な流れを感じる。ディクスン・カーなんて、不可能犯罪で興味を持たせようとするけど、どこかぎこちないもんね。それにしても、「不可能犯罪」というパワーワード。カーの代名詞だな。コンピュータ制御でスピード違反ができない自動車…って、そのカーではない!(厳冬) クリスティは昔読んだきりで久々なのだけれど、何が謎なのかわからない、という作風かな。この点、クイーンと同じ。「誰と誰が共犯者か?」というネタかと思いきや、微妙に外してきたり、「何を信じればいいか(物証か、あるいは心理学か)」で引っ張ってみたり…。クイーンの場合、アメリカ人らしからぬスマートな論理性で犯人を推定するけれど、クリスティの昔読んだ作品はそこがかなりいい加減だった印象がある。どういう結末を迎えるのか、楽しみ。

可哀想な人

何の事は無い一日。外国人を見かけたが、日本に住んでいる人だろうか。今年に入って一度、旅行者と思われる外国人に道を訊かれたことがあるが、出入国は禁止されているはずなのでは? 一体どうなっているのか…。

ネットを眺めていると、大衆の本音が読み取れる。その多くに「何だ、それ?」と首を傾げたくなるが、今日も変なのに遭遇。人は明るく社交的であるべき、という信念を持っているらしい人がQ&Aサイトで回答していた。大人しい子供の兄弟が二人いて、そのうちの一人をある期間預かり、明るい子に育て上げたと自慢。もう一人は、預かろうとしたものの、断固拒否された。そのままの性格で育ち、社交スキルに乏しいが、人生を閉ざしてしまわないといいが、などとおっしゃっていた。

「何だ、それ…」とは、もはや言いますまい。なんと素朴なお人だこと。世の中は広いもので、別にそれほど他人と関わりたくないと感じる人もいる。また、そんな基本的な事実すら受け入れられない人もいらっしゃる。この手の方々は、「他者と密に関わりたくない」などという意思表示を、単なる強がりとしか解釈できない。孤独に見える人を専ら「可哀想な人」扱いすることしかできない、視野が狭くて可哀想な人なのです。

一人飯と孤独のグルメ

休日。冬っていいな、と脈略もなく思う。今年はまだアイスクリームを食べていない。明日食べよう、と。こういうのを天邪鬼というのだろうか? でも、冬の気温的に、アイスというのは結構あっているのではないだろうか。溶けにくいし。夏にクーラーをガンガンに効かせている場所では、熱い紅茶でも飲みたくなるし。お腹も壊しにくいだろう(いや、人による)。ところで、食事中にジュースを飲むのは良くない、といわれてきた。これは、米を中心とした和食の献立の場合だろう。洋食の場合は、ほとんど問題にならなさそう。サンドイッチやハンバーガーでは、普通に甘いソフトドリンクを組み合わせるはず。実際、アメリカのレストランでは頼んでもいないのに、コーラが付いてきたことがある。翻って、食育が自慢の我が国の給食では、ご飯に牛乳が付いてくる。このセンスや如何に? 個人的には、せめて小魚にするか、給食では和食を出さないようにするかにして欲しかった。そうそう、「一人飯」というネガティヴワードがあるけれど、教室でみんなで食べる、という方式の方が嫌だったな。まず、先生が邪魔だし。趣味じゃない音楽をかける奴もいたし、それがなくても、そもそもがうるさい環境だったのだ。社会人になっても大差がない。だからといって職場を出たとして、外食先でも店いっぱいに客がいたし。こうして考えると、一人で取る食事って贅沢だよね。「孤独のグルメ」が流行るわけだ。

厭う計画

休日。午前に一度外出したきり、インドアライフ。やや体調悪し。ネットを巡回していると、Q&A的なサイトに遭遇して読んでみると、回答者が「あなたは何を言ってほしいのか」というような意味の発言をしていた。この人は質問者の読みたいことを書くらしい。自分の意見を述べればいいだけなのに。「空気を読んで」生きている人なのかも。なんとなく、仙人が霞を食って生きているイメージを連想してしまった(意味不明)。それにしても、Q&Aサイトにも大衆向けのものから、やや知的レベルの高いものがありますな。まあ、トピックスや語彙はやや違うものの、どちらからも世俗的フィーリングを感じる。社会階層とともに生活のアイテムは変わるけれど、根本的にはほとんど同じような人間たちだ。

日本の社会は、上層が無能で下層が優秀とされる。下層が現実の状況に対処するのが上手くて、上層は調整(?)をするくらいで、進むべき方向にリードするのが苦手だ、と。個人の中でも似たようなことが言えて、ボトムアップのタイプは状況に対処し続けるだけで、結果的に良い方向に人生が進んでいく。トップダウンの方は、達成したい目標が明確で、紆余曲折があっても、最終的に大体目指した方向にたどり着く。世の中の数あるプロジェクトのリーダーは、こちらのタイプなのではないだろうか(ある人の顔を思い出しつつ)。

自分は目的でつながれた行動の連鎖(綿密な計画)が苦手で、成り行きの方が良い結果になる。トップダウンには向かない日本人か。

殿様銀行

休日。ある事情で現金が必要だったので、某銀行のATMに行ったら、暗証番号を間違えて覚えていたらしく、引き出せなかった。何回も番号を入力したので、当然ながら、ATMは使用不可に。それはいいとしても、ネットでの利用再開手続きが何故か出来ない。原因は不明。結局、別の銀行の預金を下ろすことに。セキュリティも強化しすぎると不便。

銀行といえば、サービスの悪さ。いまだに15時で閉まる。従業員の態度も悪い。客が困って右往左往していても、見て見ぬ振り。できるだけ仕事をしたくない。面倒ごとはごめんだ。表面的には丁寧にしているつもりだろうが、そんな心理が露骨に窺える。

この手の不親切さは、銀行に限ったことではないか。どこもかしこも、ふとした瞬間に客の悪口。こんなことだから、早くテクノロジーを商売に普及させてほしいと思う。お店は基本的に無人化。トラブルが生じたときに、人間が対応する。これが理想。なんだかんだ言って、みんな接客の仕事が嫌いだし、客の立場になってもセルフサービスの方が好きな人は滅法多い。

無人化ができないのは、技術の進歩を望まない老人たちのせいだ。だから店員さんたちにはもっと、勤務態度を悪くしてほしいと思う。「お客様は神様です」どころではない。社会主義国も真っ青の殿様商売。「サービスして欲しけりゃ、お願いしますって言え!」。生身の人間に相手をしてもらうより、機械を操作した方がマシだ、と老人たちが感じだしたら、しめたものだ。

違いがわかる男女

暖かい休日。午前は、ちょっとした用で出掛けた。帰ってから、ネットをチェック。詳しくは知らないが、オリンピックの運営組織(?)の長をやっている元首相が失言とか。「全発言」とやらを斜め読みしてみると、元首相が「一般論として女性は話が必要以上に長い傾向にある」と言ったように解釈できた。本人の意図はともかく、このご時世では絶対叩かれますな。日本の国も意識が向上してきている、ということ。でも、知人のアメリカ人女性も「女はおしゃべりだ」と認めてたけどね。社会的には「そんなエビデンスはない」とするのが正しいのか。

ところで、「男は観念的、女は現実的」と、よく言われてきたように思う。確かに自分が読んだ小説を振り返ると、女性作家の作品は文体から生活感が漂っているものが多かった気がする。対極なのは、村上春樹。この人の作品は生活感もあるが、ありきたりのストーリーや感情移入を楽しむものではなくて、何かしらの理屈が背景にあるようで理解するのが難しい。現実で会う女性は、しばしば他人の些細な言動を話題にして盛り上がる。それがエスカレートすると、話題の人物をネタに妄想を繰り広げて遊び始めることとなる。「男性も同じことをしているではないか」と思うかもしれないが、他人をおもちゃにしている不快感が、男性と比べて数割増しに感じたものだ。現実で会う男性には興味がない(女性にも、さほど興味はないが)。けれど、おそらく比較的個性を持った一人一人の人間から遊離して、集団全体とか、集団同士の関係に関心が向くのではないだろうか。そして、そもそも人間に興味がない人たちが少数いて、「オタク」と蔑まれていたわけだ。

最近はどうだろう?

定価

休日。眠い。これを書いたらよく寝よう。今日は、使わないPCを売ろうとして、初期化など色々ごたごた。まず、Linuxwindowsデュアルブートにしていたので、どうしようかと思案。とりあえず、査定のときにGRUBの画面が出てきたらややこしいだろうから、電源を入れてすぐにwindowsが起動するように直した。パーティションは区切ったままだったが、持ち込んだ店では買取価格には影響しないのだそう。その店は、客が主に年寄りで、置いてあるマシンのスペックもそんなに高くなさそうだった。そんな所にthinkpadを買って下さいといっても、仕方がないのだろう。結局、査定の額に納得いかず、別の店にネットから申し込み。郵送するのが面倒。しかし簡易見積もりによると、こちらでは1万円近く高値で買い取ってもらえそう。

普通、物を売るときは相場を意識する。そして、この商品は大体この価格なのだ、と認識して間違うことは少ない(「定価」という言葉もある)。しかし本来は、物の価値など、評価する人によって違ってくるのが当然だ。日本で、このことを身をもって感じることができた、というのは良い体験なのかもしれない。