将来何になりたい?
素晴らしい休日。何が素晴らしいって、休日なところが素晴らしい。注文していたギターが届いた。かなり安物で、チューニングが不安定。トレモロブリッジもコストカットしているはず。ちょっとショックな構造だった。とりあえず演奏できなくはないけれど、部品は交換したい。もともと改造する覚悟だったし。ボディシェイプが気に入っている。これが目当てで買ったのだ。写真は掲載しない。珍しいギターなので個人特定されそうだから(そんな馬鹿な)。写真に撮ってアップロードするのが面倒だ、というのが本命の理由。
実は演奏が上手になりたいとは思わない。やる気がないのかというと、そうではない。改造やリペアの道へ進むのだ。…と、いうのも嘘。コピーをしたいミュージシャンが何人かいて、彼らのようにプレイしたいだけ。初心者なのでオリジナリティなんて考えていない。模倣するのみだ。趣味なのだから。
もし自分が10代の子供で才能があったら、プロを目指すかもしれない。あらゆるジャンルの音楽を聴きまくり、そのそれぞれからエッセンスや奏法を吸収した上、業界のコンテストなどにも参加して「上手いギタリスト」という評価を勝ち取れるよう努力するかも。見かけはアーティストであっても、市場での立ち位置だとか、社会の中での役割というものを意識している人が結構いる。所詮は人の子。「社会的アイデンティティ」に執着するタイプの人はいるのだ。
何かしらの「スペシャリスト」や「達人」でありたい。「何者か」でありたい。そんな動機が、行動を促す起点の一つになっていた可能性はある。情けないことに、「他人から見た自分のあり方」を昔は気にしていた。
逆に、「自分だけのオリジナル」へ拘ったとしても、その背景には「その他大勢」の人々の存在を前提にしている。社会的アイデンティティに対して、裏返しの形で執着していることになる。
「将来何になりたい?」という大人の問いかけが、強く子供の一生を束縛するようだ。