Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

ネットニュース

最近のネットニュース、どこかのサイトの切り抜き記事が目立つ気がする。誤字脱字は当たり前だし、酷いときには、途中で文章が途切れて終わっている。それでも暇つぶしにはなるので、何の気なしに眺めていると、「空気」をテーマにした記事があった。

「近年、成長著しい中国の公害が問題視されているが、我が国でも昔は工場から排煙が大気を汚染し、深刻な社会問題だったことを忘れてはならない!」という意味での空気ではもちろんなく、人間関係にまとわりつく「空気」。

「空気読め!」と、目に見えないものを読めだなんて、冷静になると、理不尽にも聞こえるけれど、こんなイディオムがこの国では通じてしまうんですな。この「空気」のせいで、皆がおかしいと思うことでも異論が排除されて、とんでもない方向へ突っ走ることになる。日頃からよく起こっていることではあるが、どうしてなのか。

件の記事では、直接この疑問に答えないかわりに、一神教の国では「空気」による支配は起こりにくい、としていた(山本七平の本を引き合いに)。唯一神を信じる人々にとって、絶対の神以外は物事は相対的な存在であり、客観的に比較/分析する対象になる。

翻ってこの国では、一旦「これが良い」とされると、皆それにのめり込み、何かのきっかけで別のものが良いとされると、次はそちらに乗り移る。繰り返されるブームに流される、ミーハー民族。(大自然から便所、学問や商売まで、森羅万象に宿る神様たちを祀る多神教の宗教観が背景にある、とされる。)このミーハーさ加減が、「空気」に支配される行動様式とパラレルなわけだ。

一神教は反「空気」で、多神教は親「空気」という図式のようだが、本当だろうか。

昔、一神教の某国大統領が十字軍気取りで中東へ攻め込む決定をし、国民の大多数もそれを支持をした、という出来事があった。正義感あふれる「空気」が国中を覆っていたように思う。

逆に、我が国においては、愚民たちの流行への没入っぷりに呆れて、まっとうな批判精神に目覚めた人たちが、世の中を徐々に客観視できるようになっていく可能性もあると思う。

(記事をよく読むと、山本七平も同じようなことを書いているみたいだった!)