Wheels Of Blue

何者でもない人間のひとりごと

インフルエンス

平凡な一日。唐突だが、サザエさん的日常は、本当に日常なのか、と思う。すでに突っ込んでいる人が沢山いるはずだけど、あの家族が現代でも違和感なく受け入れられていたとしたら、凄い。なんといっても彼ら、3世帯同居で、家でも着物姿の人がいるかと思えば、まだ子供なのに叔父や叔母になった小学生とか、カオスを極めているからなぁ。まだ放送しているのだろうか、あの番組? スポンサーも、粉飾決算ブラック企業だったし…。

雑誌は廃刊になり、テレビ離れも進む昨今なれど、相変わらず流行は作られるものらしい。街ゆく人々の洋服やメイク、髪型などを見てもわかる。仕事や趣味で使う道具のデザインも同じく。企業の広告戦略には詳しくないが、プロモーションのやり方は変わってきているはずだ。昔と比べて明らかに異質なのは、ネットを介した口コミ戦略だろう。ある商品がヒットしたとき、記憶を振り返ってみると「このインフルエンサーの影響が大だな」と気づくことがある。個人的にも、その種の人から魅力のある商品を紹介してもらったことはある(日本では全然流行っていないが)。

個性あふれる人々が暮らす社会なのだから、趣味趣向も千差万別。手段は充実してきているので、様々な欲望が自由に表現され、多種多様な価値物が産み出され、皆が幸せを享受できるような豊かな世界がついに到来しつつある…という気配は、どうも今のところはない。あるのは、自然の摂理に逆らって髪を染めるのが普通の時代に、「金色はOKでも青色はNG」といった不合理だ。どうでもいい差異について他人の顔色を伺い、悪く言われないように気を配るお馴染みの構図は不動なわけだ。業界や企業が仕掛けなくとも、今までのような「流行」は当分なくならない、と予想。

現代人のストレス

休日の日。頭痛が痛い。アルコールを摂りすぎたからではない。慢性的なものだ。主に精神的ストレスから来るのだと推測している。精神的なストレスは、外からの刺激によるものと、内からによるものがある。外からの刺激は、外界と関わらないようにすることで避けることができる。しかし、内からのストレスは、それほど容易ではない。禁煙を思い浮かべてみればいい。ニコチンを摂取したいという欲求がありながら、それができないという状態に常時晒されるのだから。さて、ここから一般論を抽出してみよう。内からのストレスは、「〜したい」「〜であれ」という欲求や願望と、それらが満たされない現状とのギャップから引き起こされる、と。

世間と接していると、様々な欲望が掻き立てられる。ネット上のSNSでは、大勢の人が羨むライフスタイルが映像やテキストなどを通して流付され、その反動として、明るい場所では賞賛や祝福の、暗い場所では妬み嫉みの、数々の表現が実名匿名でなされている。少数の勝者と多数の敗者。強者はグラスを傾け美酒に酔い、弱者はうつむき唇を噛み締める。分不相応な欲望に引き摺られる形で、現代人の多くはストレスに苦しんでいるかのよう。自分のような厭世家は、嫌々世間と関係しているが、せめてもう少し精神衛生上過ごしやすい環境に整えてくれないか、と虚しく願っている。

ところで、川などで溺れた人は、助かろうとしてもがくよりも、自然に逆らわないようにしている方が、助かる確率が上がるという。あるいは、身体に怪我をして、「痛い痛い」と喚くのは無駄なだけではなく、さらなる苦痛をもたらす。「助かりたい」「よくなりたい」という強い「思い」が、不幸を呼ぶのだ。

スティーヴ・ヴァイというギタリストは、創造的なプレイの原動力は"passion"だと言う。日本語の「情熱」のように、「燃えるような熱い思い」という意味ではないらしい。曰く、「なんとなくこうありたい」というような、漠然とした精神の動きなのだ、と。

遊び

実り少なき一日。平日だというのに、中心街には人だかり。日差しも強く、予想外に不快なコンディション。休日と同じく、旅行者や近場の暇そうな人が多かった。こうした場所に来るのは、自分は目的があってのことなのだが、彼らは何のためなのだろう。銀行が集まったエリアの近傍には、飲食店に、カラオケや映画などのアミューズメント、雑貨に洋服店…その辺りか。日用品は、あんな所でなくても手に入れられるので、お友達と「遊んでる感」を感じられるような環境を求めてのことなのだろう。この国の人口ピラミッドと比べて、年齢層も低めだった。

歳を重ねるに従って、家族の面倒を見なくてはいけなくなる。友人とも疎遠になり、体力も減ってくる。そんな理由から、外で遊ぶ大人が減ってくる。間違っていないにしても、それだけのことだろうか?

より本質的には、精神面が成長することで、人生の楽しみ方や遊び方が、より深く、より洗練されるからなのではないか。子供の頃にダサいと感じていた大人のセンスが、自分が大人になってみると、実は格好良かった、あるいは美しかったということに気づくことがある。そして、若かった頃の感性に従って為した行動の記憶を、黒歴史(死語)の1ページとして封印してしまいたい思いに駆られることすらある(かもしれない)。中学・高校の生徒は、しばしば学校の制服を野暮ったく感じるのか、着崩したり、自分流にカスタマイズしたりするが、ほとんどの場合、見る者をだらしのない気分にさせる。

学校といえば、スクールカーストいうのがあるらしい。自分が学生だった頃もあったのだろうか。よく覚えていない。一番上位が、遊び人的な者たちなのだとか。貴族は遊ぶのが仕事だから、というわけか。しかしディテールの説明を聞くと、あまり上品な印象は受けない。「楽しく遊んでいる感」が、繁華街ではしゃいでいるグループのイメージとダブる。下位には、勉強ができるタイプや文化系タイプがいるとのこと。このカーストの序列も、大人になると逆転するという話だ。当然だと思う。深い喜びや楽しみを伴う経験を得るには、それなりの苦労が伴うはずだから。そして、社会的に価値あるものを生み出せるのは、お仕着せではない価値を身をもって感じたことがある人間たちだから。

 

リンク先

休日。微妙な一日。マハヴィシュヌオーケストラのアルバム「火の鳥」が安かったので、注文。高校の頃ベスト盤で一部の曲を聴いたきりだったので、今度はじっくり聴こうかと。良かったことはこれくらいかな。

用あってブラウザを使っていると、つい不要な情報にまでアクセスしてしまう。好奇心からだが、軽いネタ的なリンク先に飛ぶのは、いい加減やめたいところだ。けれども、まともなニュースサイトを読んでいるつもりが、気づいたら別のサイトからの怪しげな転載記事を読まされていた、なんてこともある。お金を貰う見返りに、別メディアへ誘導してやっているわけだ。最近増えているやり方だ。その運営会社は、読者の利便性よりも収益を重視する方針に変わったのかな、と思う。

それなりに信頼性の高いサイトから転載されている場合もある。だからといって、内容が良いかというと、これも微妙。例えば、確からしい事実やデータを列挙しているものの、出来事の本質がどこにあるのか示さずに、書き手の専門知識を披露するだけに終わっているもの。切り口を工夫することで読者の関心を引くが、何年も前から知られていることを繰り返し述べているだけのもの。「世の中には、こんな事情で苦しんでいる人がいるんです」と、情緒的に訴えかけるもの…。それぞれ、全くの無意味ではないけれど、向かうべき中心地点の周辺で、グルグルと停滞している印象。

本当に役立つ情報は、5行以内に簡潔にまとまっているか、官公庁の統計ページにあったりして。

流行作家

晴れの一日。仕事帰りにスーパーへ寄る。いつも買っている惣菜パンが売り切れ。残念。安売りしている缶詰を多めに買う。そのうち値上がりするから。帰宅してからは、ある作業に没頭。しかし、ビデオゲームがそうであるように、ご利益のあるものではない。

ところで最近読んでいるのが、クリスティの「メソポタミアの殺人」。今タイミングよく殺人が起こったところ。ポアロものだが、語り手がヘイスティングズではなく、若い女性に設定されている。やや頭がいいものの、世俗的な物の見方をする人物。大衆受けのためには当然か。簡潔だが、人間理解が浅いと書けない文章。作者自身は庶民的というより、上品な人だったのだろう。低俗な次元にまで落ちてはいない。

例えば、有名サイトのコメント欄には、批評家気取りの大衆が無責任な放言を垂れ流している。品の良い人は、彼らの下卑た視線や発想に眉を顰めるかもしれない。自分なら「〇〇がなんかいってる」と切り捨てるところ、流行作家は彼らの欲望に寄り添った姿勢で仕事をする。ビジネスだからとはいえ、少しは見習わねば(作家じゃないけど)。

クリスティにはそれほど詳しくなくて、「アクロイド殺し」のような本格ものがあるかと思えば、単なるサスペンスに終わる作品もあって、いまだに作風がつかめていない。意表を突く本格ものを一応期待しているが、どんな展開になるかハラハラする(メタ的に)。前回読んだポアロ登場作がなかなか良かったので、今回も期待。

 

製品の値段

休日。注文していたイヤホンが届く。なんと値段が1万円以上。今まで4000円のものを使っていたが、これは低音域が強めに鳴り、高音域は曖昧だった。新しい方は高音がクリアで空間的な広がりを感じられる上、低音もしっかり再生される。装着感も悪くない。高いのも頷けるが、毎日使うので簡単に元が取れそう。良い買い物をした。

一般論として値段が高い商品はクオリティも高い。逆に、安い商品にはどこか問題がある気がする(食べ物は別かも)。まず、使い心地が悪いことが多いし、長持ちしづらい。自分で手を加えられる場合は改善する可能性はある。洋裁ができる人は、服のボタンが外れようが生地に穴が空こうが、簡単にリカバーできるし、工作ができる人は簡単な電化製品の修理くらい自分でできるだろう。しかし、それはある程度の知識と技術が前提なのはもちろん、値段が低い分の労力を自分で負担しなくてはいけない、ということでもある。そもそも、スマホをみんな持っている時代に、個人で不具合を解消できる製品は少なそうだ。

安物は消耗品。そこで、値段がそこそこ以上のもの買い求めることになる。けれど、このクラスであっても、他社のコピー品は好きになれない。真似しているというだけでマイナスな印象だが、模倣する理由が売らんがためという一点で、それ以外に必然性がなさそうな物品は最悪だと思う。消費者を満足させられる機能性と審美性を無理に組み合わせた感じが、美しくないのだ。一方、オリジナルを作ったメーカーの廉価版にはコストカットの意図が認められるものの、ビジネスの都合から来る不自然さはない。

後進のメーカーの一部には、中価格かつ高品質で良いもの作る会社があると思う。こちらは、先行するメーカーのやり方を研究しているのか、比較的それまで汲み取られていなかったニーズに応える努力をしているように見える。古いメーカーがブランド価値で商売しているのに対して、努力せざるを得ないのだろう。けれど自分は、「オリジナルと派生」という目で比べてしまい、結局「オリジナル」が欲しくなってしまう。それほどお金がないから、オリジナル体験が不足しているのだ。 

 

一億人組

 世間は休日。駅近くのとある場所で、テレビみたいな液晶モニターが設置されていた。画面を見ると、付近の監視カメラが通行人たちの様子を写した映像のようだった。不特定多数の人間が密集し感染症のリスクが高い場所なので、対抗策を講じたつもりなのだろう。マスクをしていない人間に対して「見ているぞ」と脅しているわけで、感じが悪い。以前はやっていなかったのだが、行政から圧力がかかったのかもしれない。

 民衆をコントロールするための方法として、この手のパターンが有効な社会だということ。江戸時代の五人組(だったか)も同じ原理だろう。近くの者たちでグループを組ませる。お上が命令した際、命令どおりの行動をとっているかグループ内で相互監視させる。もし違反者が出たら、お上に報告が入り、ペナルティが科される。現代はSNSが発達しているので、悪さをするとネット上の晒し者となる。5人のグループから総勢1億人以上の大グループへ。究極の相互監視社会と言っても過言ではないと思う。長いものには巻かれる傾向のある社会とはいえ、さすがに気持ち悪くないだろうか?

 僕自身は、マスクする必要があるのなら無料配布した上で、きちんと法律や条例で規制するべきだと思う。正当な理由をはっきり説明し、説得し、「ルール」を設定する。緊急事態なので議論を煮詰めろとはいわない。完全に民主的なプロセスは踏めないと思う。それでも、「他人が見ているよ」「みんなやってますよ」みたいな前近代的すぎるセンスにはうんざりしている。